昨日、苦しみについて書いた。
苦しみと恐怖はセットのようなものである。
肉体の感覚でいうと、痛みはとても恐怖である。
精神的、心理的な恐怖はいったい何だろう?
昨晩出てきた答えは、
恥。だった。恥辱感。
悪いことをした。という罪悪感の場合は、ごめんなさ~~い。と、許しを請うことができる言葉が存在する。
それに対し、恥ずかしい。という感覚は、それを解消する言葉を持たない。
恥という感覚を認識したら、自分でそれをどうにか処理するしかないのだ。
恥。というものは、一番つらいものだと、きっとみんな分かっているのではないだろうか。自分の過ち、失敗は失態となり、恥となる。
失敗を怖がるのは、恥が怖いからだろうねえ。
罪を犯した人に対して、人は怒りと侮蔑を持つ。
バカなことをしたもんだねえ。とか、人間のクズだ。とかいう。
そして責める。攻めには侮蔑が含まれる。
責められるということは、恥辱を味わうことになる。
恥辱は自尊感情を傷つける。
親が子を責めるのは、無自覚ではあるだろうけれど、自分のためのことが多い。
自分の恥となるのを避けたいがためでもある。
(でもそれは、子供は自分の所有物だという錯覚の上での出来事であるけれど)
罪人であることは、侮蔑されるべき対象であり、至極恥ずかしいことなのだ。
罪をかぶる恐怖より、もっと奥にあるものは、恥だと思うのだ。
恥ずかしい人でありたくない。恥を認める恐怖。自尊感情が傷つく恐怖。
人は被害にあいたくないはずのに、被害者を選びやすい。
自分で責任を負いたくないからだ。
そのために周りのせいにする世界を選び、周りに腹を立て責める。
そうやって周りに振り回されて被害者と加害者を行ったり来たりして、人生を終える。
自分の選択ミスを認めるのは恥辱で、恐怖なので、人はネガティブな結果を、ポジティブにすり替えたり、ないことにしたり、他者へなすり付けたりするんだろうな~。
こんなの選んじゃった私、恥ずかしい~。って認めちぇばいいのにね。
そこで、あの人があ~だったら、こうしてくれていたら。とかになっちゃうのよね~。
周りのせいの世界にどっぷり浸かっている人は気づかないかもしれないけれど、
自分の人生は自分の責任&選択だ。という私の感覚では、
例えば、旦那を選んだのは自分。となるので、
旦那さんの愚痴や文句を言ってるってことは、堂々と自分の選択ミス、自分の恥を周りにさらしちゃってることになっちゃうんだな。
私が、生涯共にしようと思って選んだ旦那は、こんなとんでもない奴でね、私ってほんと、見る目とセンスないよね~。って。
自分自分。自分をみようよきちんとさ!自分の失敗認めてしまえば楽になる。
他者を悪者にする必要がなくなるんだよ~。
軽~く軽く、恐怖を越えていきましょう!
遠隔中のみなさまに、追加しておきました。恥の世界とその体験、恥辱感。
さようなら~~!